燦燦舎のブログ

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九産大美術館出展作品「田舎で出版社、はじめました!」こうなりゃ全文公開!

燦燦舎代表の鮫島亮二です。

先日もブログで書きましたが、ただいま九州産業大学美術館にて九州の作家さんたちにまじって展示っちゅうもんをやっております。本ブログを執筆しているのは5月18日。もはや会期も明日まで!なので、展示している作品のうちのひとつを全文公開します。

今回の展覧会のために、燦燦舎から“架空の本”を出版した、という謎の製作方針になっております。ガラスケースの中での展示という前提での執筆ですので、多少わかりづらいところもあるかもしれません。あと、そんなひとは絶対いないだろう!とは思うのですが、九産大で実物を見たくてたまらんからまだ読みたくない!」という奇特な方はどうぞ読まれないでくださいませ。

 

それでは以下、展示の様子と本文を転載いたします! どうぞご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

九州産業大学美術館『美の鼓動・クリエイターアーカイブ展』出展作品

『田舎で出版社、はじめました!』 鮫島亮二

 

 

出版社、はじめました!

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    出版社をはじめる前の話を少しさせてください。 

 ぼくは1977年、鹿児島市の「きしゃば」という飲み屋だらけの焼酎臭い街に生まれました。父親は昔ながらの小さな時計屋を営んでいました。自宅の一階が店で、上が住居です。幼い頃は父が時計を修理している姿はかっこいいと思っていたものですが、次第に大きなディスカウントスーパーが増え、小さな時計屋では誰も時計なんて買わなくなりました。家の向かいがパチンコ屋という最高の立地だったので父は朝からパチンコ屋へ直行。無回転フリーキックのようにまったく在庫は回転せず、ぼくが高校3年、大学受験2週間前に見事に倒産しました。父は自己破産、家族で逃げるように引っ越し。「俺、大学行けるのか?」と絶望しましたが、「ここにいたら俺の青春は消える!」と意地で大学に合格して埼玉に逃げました。3人部屋の学生寮奨学金とバイトで生きて、一切勉強はしなかったけど卒業しました。

 2017年、父が死ぬときに追悼文集『父、和昭』を編集しました。これが公開できないほどの面白さで、残念です。気になる方はこのガラスをぶち破ってご覧ください。もれなく福岡県警に連行されます。父のことは全然好きではなかったんですが、編集してるときはなぜか涙も出たものです。長渕剛九州産業大学中退)じゃないですが、自営業なんてろくなもんじゃねえ!と思っていました。だけどいま自営業をやっています。

 大学を卒業して、鹿児島銀行という某地方銀行に就職しました。まったく仕事に興味がもてず、会社に貢献したことは銀行強盗を捕まえたくらいで3年で退職、というか退学。金も必要だし、鹿児島にいづらいし、某トヨタ自動車期間従業員に応募して愛知県に行きました。トヨタシエンタの左ドア内側のネジを締めるだけ、という仕事に2年間従事しました。ある日、プレスの工程にいた人が機械に挟まれて死ぬ事故がありました。名前も知らない人でしたが、事故の翌日も淡々と普通に工場が稼働するのが虚しくて、「潮時かな」と、2005年の冬にトヨタを出所して、鹿児島に帰りました。いつのまにか28歳でした。

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 ある日職安で求職票を眺めていたら「南方新社(出版社)営業募集」とあります。怪しい。秘密結社か! 明らかに異彩を放つ求人票で、面接に行ったらほんとにおかしくて、出版社なのに山の上にあるし、社屋は百姓一揆のアジトみたいな民家。入社したらさらにおかしくて、会社でニワトリを飼うわ、社員旅行は人口数十人しかいない諏訪之瀬島だわ、あげくに社長は県知事選挙に出馬する!というとんでもないところでした。

 営業、編集とひと通りするようになり、2010年に結婚して、2011年には男女の双子が生まれ、3月に東日本大震災が起きました。ものすごい時代ですが、自分で本を企画して、自分でつくって売っていきたいという欲求が高まっていったのです。出版を取り巻く環境は悪化の一途。独立を打ち明けてみた友人知人は黙るか、苦笑いするか、話題を変えるか。大型書店に勤める大学時代の先輩からは「絶対無理! 無理無理無理無理ィィィィ!!!」と説教されました。

 運気が下がるだけじゃ!と都合の悪いアドバイスは聞かなかったことにしていましたが、いちばん近くにいる人間、つまり妻の意見は無視できません。「幼き双子はどうすんじゃ!」と抗議されると思っていましたが「あなたはそのほうがいいと思います」と了解してくれました。次は南方新社向原祥隆(むこはらよしたか)社長です。そういう活動をされていた方なんで、「会社に貢献してから辞めろ!」と鉄パイプで頭を粉砕されるんじゃないかとびびってました。しかし「絶対にそれがいい。自分の責任でつくるのがいちばんいい本ができるんや」と応援してくれました。向原さんはまあ無茶苦茶な方ですが、少なくとも鹿児島の歴史に名前を残す人物です。「この人が言ってくれるならやれる」と思えました。2013年3月、ぼくは南方新社を退職しました。36歳でした。

 最初は桜島の絵本だ!と決めていました。南方新社時代に『みんなの桜島』という本を企画・編集しました。著者は桜島の魅力を県内外に発信するNPO法人桜島ミュージアムで、桜島の成り立ちから災害、暮らす人々までまとまった、大変いい本でした。桜島の本は他にも多数出版されていて、既に出尽くしている感もありましたが、子ども向けの本は皆無でした。ないならつくりましょう!と桜島ミュージアムと妻の共著で出すことに決定しました。資金は退職金の100万円! 印刷会社に見積りを取って、ハードカバー、32ページで六十数万。みなさんの後ろに閲覧用の『桜島!まるごと絵本』がありますが、開いていただくとわかる通り、前半は絵本、後半は桜島の解説の二本立てになっています。「これは、本にしなきゃならん。紙に刻まないといけない!」と後半のページ数が予定よりどんどん増えて56ページ。見積りを取ったら100万近くに増額! 泪がにじみました。

 前半の絵本のストーリーも、「桜島は、こげんしてできもした」という島の成り立ちをそのまんま絵本にすればよかど、と安易に考えてプロットを描いたら、これが一切面白くない! 適当に考えてた自分に延髄斬りをかましたくなりました。反省、そしてストーリーを考える日々。桜島にもフェリーで何度も足を運びました。余談ですが桜島フェリーではうどんを食うのが定番です。

 灰が毎日降り、100年前に大噴火があったばかり。いつ次が起きるかわからない桜島。誰もが危険だと考えます。しかし取材を重ねるうちに「やっぱりこの島が好きでねえ。すぐそこの浜辺でアサリやら採れるしねえ」というおばちゃんの言葉に出合い「ああ、ここになぜ人が住み続けているのか。それを絵本にしよう」と決めました。大正噴火から島が復興していくお話。子ども向けにはいささかブルージーですが、これしかない、と思えたのです。震災後の日本では、どこに住んでいても「なぜここで生きるか」を問う必要があると考えています。

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 2歳の双子を抱えながら、妻は夜中に絵を描いていました。入稿直前に妻から「絵に納得がいかない。全部描き直したい」と申し出されました。上品に言っても「この期に及んでぶっ殺すぞ!」となるんですが、妻も一歩も引きません。「これ以上争ったら寝てる間に花瓶を頭に落とされる」とぼくの生存本能が察知して、了解しました。というのは半分は冗談で、本は何十年も読んでもらうもの。ここは遅れよりも品質を優先させようと断腸の思いで決めました。妻は超スピードで絵を描き直したのですが、まったく別物と言っていいほどよくなったのです。「わたくしが間違っておりました」とひれ伏したものです。

 2014年3月、絵本が納品されました。部数は3000部! 小さな地方出版社にとってはけっこう大きな部数です。感慨にひと月ほど浸りたかったんですが、そんな余裕はなし。印刷会社に支払いを済ませたら通帳の残高は50万円。ふたたび泪で数字と現実を直視できません。運転資金が50万ではなく、生活する金も含めた「全財産」です。1冊も売れなければ2か月で枯渇、一家離散、トヨタに逆戻りです。

 こんな事態は初めからわかっていたので、実は年末頃からある活動をしていました。予約を取るんです。あるときはイベントでテントを構え、目が合った知り合いすべてに「この申込み書に名前と住所を書け。本ができたら送りつける」と署名を集めるかの如く予約を集めました。半ば恫喝恐喝の類いでしたがクラウドファンディングとかありますが、ネットをまったく使わず人力で予約500冊。これで70万は確保! しかし、これでもトントンにもなりません。

 書店さん営業も目一杯しました。50冊、100冊!と、ほとんどの書店さんが一等地に置いてくれました。あとは売れるかどうか、もはや我々ができることは祈るのみです。

 結果、売れたんですね。こんな売れ方は経験したことがありませんでした。地元新聞のランキングにも何度も入りました。ある書店員さんは「すばらしい本だ。これが売れなかったら、それは書店の責任だと思いました」と言ってくれました。学校や図書館をまわって販売をしてくれる外商書店さんから「こんな本を待ってたんですよ!!!」と電話が来ました。先日は「子どもが何回も読み聞かせしてくれって言ってくる」というお母さんに会いました。3000冊刷って、ひと月でなくなって2000冊増刷することを決めました。

 名もなき新しい出版社を受け入れてくれる鹿児島の土壌に感謝したものです。「ああ、これで次の本も出せるな」と正直ほっとした気持ちでした。

 ようやく出版社になれたんだな、と。

 

 

あのBEAMSですか、なにか?

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 その後『ぐるっと一周! 鹿児島すごろく』やミニシアターの本『39席の映画館』を出して、なんとかやっていた2016年の夏、電話が鳴りました。取ってみると、「BEAMSですけど、九州の開運すごろくってつくれませんか?」

 は? 意味がわからんので、「ええっと、ビームスって、あのビームスですか?」と聞いたら「はい。あのビームスです」と、謎のやり取りをしました。お洒落業界総本山のあのビームスが、流行・洗練とは対極の我々に? オレオレ詐欺かドッキリだろ、なめやがって!と思ったんですが、ビームスさんはほんとにやって来ました。真夏でしたが、当時の燦燦舎のオフィス(兼住居)は築百数十年の古民家でクーラーはなく(ちなみに風呂は薪で焚いていた)、ビームスの方は汗だらだらでした。かわいそうに。ビームスと百貨店の伊勢丹で、熊本地震の復興のために九州の作家に「縁起物」をつくってもらうことを企画している、12月に出してほしい!とのことです。「つくれんのか? 鹿児島じゃねえぞ。売れんのか?」と逡巡したあげく、出すことにしました。いちばんの理由は4月に熊本で起きた地震でした。自分は何もしていない。作品を通じて、復興に何かしら役に立ちたかったのです。

 当初は「資料だけ集めてつくればええんちゃうか。時間ないし」とこそっと思ったりもしましたが、ぼくらは出版社であると同時に、自ら「手売り」をする本屋さん業務もしています。世の中には「つくる人」が上で「売る人」は下という風潮がある気がしますが、「朕は編集者さまでござい。売るのは下々がせよ」的なのが気に食わない。よく「なんとかマルシェ」などのイベントに出て、路上や公園で本を売っています。感覚としては家族でつくって家族で売る、農家に近いのです。自らつくって自ら売るものには責任や職業倫理がはたらきます。作り手と売り手の間に挟まるものが多いほど、それが希薄になっていきます。

 ということで、「やっぱ取材すべし!」と単身、軽バンで九州をまわりました。予算が少ないので旅程の半分は車で寝るハードな旅でしたが、九州は広く、すばらしかったのです。阿蘇、島原、別府、火山地帯ゆえの災害の痕跡、同時に溢れる力強さ。これはもう、全島的にパワースポットでした。熊本に行った日は偶然、上通りの「金龍堂まるぶん店」さんが復活オープンした日でした。前職の南方新社時代からお世話になっていた本屋さんで、地震で被害を受けたことも知っていました。その金龍堂さんが開店している。店内には開店を待っていたお客さんからのメッセージが張ってあって、街には本屋が必要だ、と改めて思えました。逆に勇気をもらう旅でした。

 『ぐるっと一周!九州開運すごろく』は福岡の本屋さんでもたくさん販売していただき、売上の一部を熊本に寄付することもできました。本を通して、九州という島に恩返しをしていきたいのです。

 

 

世界の当事者であり、地域で生きる

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 本をつくって生きていくこと以外に、もうひとつ大切な活動があります。鹿児島には川内原発1号機、2号機があるんですが、2008年には3号機までつくっちゃうぞ!九州電力と県が決めました。目の前でそげんなもんをつくられたらたまらん!と、反対運動に参加するようになりました。だけど、署名運動に行くと川内原発3号機増設断固反対!」とか書いてるゼッケンをつけさせられるのが嫌で、「もう勝手にやろうぜ」と友だちと「天文館アトムズ」という一見草野球チームみたいなグループをつくりました。いま思えば震災前の2009年に辺境・鹿児島でサウンドデモをやってたのは画期的だったかもしれません。そこに、浦田琴恵という女性を誘いました。彼女は桜島に移住してきたアーティストで、別府の「混浴温泉世界」など九州のアートシーンで活動していました。彼女と「KTSアートマーケット」というイベントに出展。玄海原発川内原発の海で放射性物質入り海水を汲んで「ドキドキ川内♡もれててもあんぜんスイーツ」という危険なお菓子をつくり、それを彼女がコスプレして配る、というパフォーマンスでした。いまではしゃれにならんですが、審査員賞を受賞。「原発はあぶねえ!」と吠えるのも必要ですが、まずは楽しい!かわいい!面白い!と目の前の人の感情を揺さぶる。「主張」を「表現」にすると、少しまわりの受け取りかたが変わるのです。その様子は次ページに掲示している「天文館アトムズ」に詳しいので、気になる方はこのガラスを正拳突きで粉砕してご覧ください。反核か婚活か謎ですが、彼女はいまの妻です。

 2011年1月には男女の双子が生まれました。3月11日、九州新幹線全線開通の前日に東日本大震災が起きて、福島第一原発がふっ飛びました。「自分が伝えてきたことは、まったく届かなかった。無力だった」。生まれたばかりの子どもたちと、すべての子どもたちに本当に申し訳なく思いました。

 震災で止まった川内原発ですが、お上にものを言う人が少ない鹿児島。再稼働は日に日に進みました。県や九電に申し入れに行く。署名。裁判。県知事選に南方新社の向原社長が出る。原発ベテランのおじさんたちと県庁前に勝手にテント村を建てる。県庁前で連日「再稼働反対鍋」をする。「ストップ☆せんだいげんぱつカレーフェスティバル」を開催して1500人集める。県知事に直訴して警備員にもみくちゃにされたあげく、知事から「ノーコメント!」というありがたいコメントを頂戴したこともありました。思いつくことは全部やったけど、2015年8月11日に再稼働です。あとは物理的に止めるしかない、と向原社長やおじさんたちと、原発のゲートを車でふさぐことにしました。問題は「威力業務妨害で逮捕されるかもしれない」ということでした。幼い子どもの顔が浮かびましたが、もはやここまで来たらやれるだけやろう、と。

 貧困、差別、戦争。世界には哀しい出来事が溢れています。身体はひとつだから、すべてに取り組むことは不可能。だけど少なくとも当事者でいたいと考えます。そして自分が生きる土地には責任を持ちたいのです。

 

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 結局逮捕されることはありませんでした。川内原発は見事に全国トップで再稼働して、ぼくたちは駐車違反のキップを切られました。上に掲示しているプラカードはそのとき警察に取り囲まれた車中で書いたものです。

 「核から自由であるべきだ」

 原発は恐ろしいんですが、鹿児島に住んでいると「ものを言えない」空気があります。それが何より恐ろしい。確かに大きな企業に勤めてたり、役所から仕事をもらっていたら何も言えないのかもしれません。「自分も反対だけど、言えんど」と無数の声を聞きました。自分がこんな小さな出版社をやっているのは、「発言の自由、表現の自由」を失わないためでもあります。

 特定の大きなところからお金をもらって生きているわけではなくて、燦燦舎のスポンサーは街を歩く小さなひとりひとりの読者です。彼らに届く本をつくっている限り、声を上げることに何の怖れもありません。壁よりも卵でいるぞ、と。なんなら卵あっためて子孫も増やしたるぞ!と。

 これからも路上で、言葉で、本で自由を叫ぶのです。

 愛と笑いを忘れることなく。

 

田舎だからやる!

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 田舎の鹿児島にも、たまにはいいニュースがありました。NHK大河ドラマ西郷隆盛になったのです。鹿児島人、狂喜でごわす! 2014年に『桜島!まるごと絵本』を刊行してから「次は西郷さんか」と考えていました。しかし、大河ドラマがあるからといって、安直に絵本にするのは気が引けました。鹿児島人は西郷を「好きすぎる」のです。神格化までしてしまう人もいます。西郷と長渕の悪口を言ったら血が流れるという都市伝説もあります。「明治維新150年。とにかく盛り上がればよかど!」。そんな空気がどうにも嫌で「手放しの礼賛本」はつくりたくなかったのです。我ながらめんどくさい性格ですが。

 そんななか、東川隆太郎さんとの出会いがありました。「この人とだったらよか本ができる!」と直感。東川さんは「かごしま探検の会」というNPOを運営しているまち歩きの第一人者です。大河ドラマの制作にも関わり、歴史の知識が抜群なのはもちろんですが、何より音楽・映画から世間遺産まで知り尽くし愉しむセンスがすばらしいのです。「神様じゃない、“ありのままの西郷像”を描く絵本をつくりましょう!」とアタックして、見事快諾!

 東川さんが語る「大西郷」は、味噌もつくればわらじもつくる、倒幕に手練手管を駆使したかと思えば時に大放屁かまし、流された南海の島で愛を知る、という、知れば知るほど深くて広い“ひとりの人間”でした。

 『西郷どん!まるごと絵本』は県内“だけ”では売れました。初刷り4000部をひと月で増刷。現在8500部発行しています。とある書店さんでは一時的にあの!林真理子の大河原作本よりも売れたこともありました。もちろん、トータルでは遥かに及ばないんですけど。

 そんなに西郷に興味あったんかい!とツッコみたくなるくらい大手出版社が見分けのつかない西郷本を出していましたが、かなりの数が返品になっています。『西郷どん!まるごと絵本』は、返品はほぼ皆無。なんでかっつーと、手が届く範囲で配本して、こまめに営業してるからです(本屋さんが「燦燦舎の本は売ってあげないとつぶれる!」と思っている可能性も大)。これは地元の本を地元で出しているからできる所業です。

 鹿児島に住んでいると、都会の大手チェーンをありがたがりすぎて地域の店も雇用も消失。ぺんぺん草も生えん、ということがあります。グローバル化が進むなかで、小さな地域で経済を循環させる。それがそこの商いや暮らしを守る。

 そう思って、田舎の本を田舎でつくっています。

 

 

あとがきにかえてつなぐということ

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 2019年が明けたある日、『桜島!まるごと絵本』を買ってくれた大阪の小学生から読者ハガキが届きました。うちのハガキには“注文書籍欄”があります。そこには『みんなの桜島』と書かれていました。右に展示しているこのハガキです。字が小さいので千里眼じゃないと見えないかと思いますが。

 「『みんなの桜島』は、ぼくが前に働いてた南方新社の本です。送ってもらうように連絡しときます。ぼくが編集した本だし、いい本だからとてもうれしいです」と彼に電話をかけました。いまみなさんの後ろに展示している『桜島!まるごと絵本』の最後のページには「この本も読んでみよう!」という欄があり、桜島の本を紹介しています。彼はここを読んで注文してくれたのです。

 鹿児島には実はたくさんの出版社があり、多くのよい本が生まれています。ですが、良書であっても幾分硬く、重い。初心者や、ましてや子どもには手が出ない本が多かったのです。知識はいきなり身につくものではなく、一段ずつ階段を上がるようについていきます。何も知らない状態で“ゴール”のような本だけ手渡されたとして、どれだけの人が次の一段に進めるのでしょう。

 ぼくの本が入口となり、少年が次の「知」を求めてくれました。出版社をやってきて、こんなにうれしいことはありません。

 今回の展示のテーマは「つなぐ」ですが、つなぐことなんて、考えたことはありませんでした。むしろ苦手。だけど振り返ってみると、ぼくはつなげていたのかもしれません。

 最後に、燦燦舎という社名について。「燦」には輝くという意味があります。南国鹿児島の出版社なので、太陽のイメージです。太陽の熱で水が蒸発し雲になり雨が降ります。植物は光合成をして酸素をつくり、めぐりながら次代へとつながります。発展・拡大よりも循環・持続。その源が太陽です。100年後の子どもに、今日のような明日と、自由な空気を引き継ぐ。本にはそんな力があると信じて、だから田舎で、小さな出版社をやっています。

 今回の展示に声をかけてくれた「美の鼓動」ディレクターの深川裕美さん、尽力くださった九州産業大学美術館学芸員の三戸丈治さん、本当にありがとうございました。「展示」は自分にとって未知のフィールドでした。共に燦燦舎を経営し子どもを育てている、妻のさめしまことえの協力がなければ成立しませんでした。ありがとう。これからも、本をつくって生きていきましょう。

                         燦燦舎 代表 鮫島亮二

 

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以上が九州産業大学美術館『美の鼓動・クリエイターアーカイブ展』に展示をしております「田舎で出版社、はじめました!」です。

ちなみに最初の写真が4ページからのはじまりになっています。最初のページは1ページじゃないのか?とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

1 総トビラ

2 白ページ

3 まえがき

4 本文「出版社、はじめました」スタート

という台割の設定になっています。どうでもいいですね!

 

明日の5月19日は13時からクロージングパーティーです。わたくしも鹿児島から出撃。どなたでも参加できますのでどうぞ遊びにおいでくださーい。詳細はこちらのwebを!

 

www.kyusan-u.ac.jp

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san-san-sha.com

 

今回紹介しております西郷どん!まるごと絵本』『桜島!まるごと絵本』『ぐるっと一周!九州開運すごろく』など燦燦舎の本のご注文は上記webから!

日本全国送料無料!でお送りします!

 それではみなさま、福岡でお会いしましょう。